早稲田大学の正門を入ると左手の木陰に大きな立派な石碑が立っています。石碑には不朽の名校歌として歌い継がれるわが早大の校歌「都の西北」の歌詞が刻まれています。この早大キャンパスのモニュメントが市川稲門会と深くかかわっていることをご存知でしょうか。
平成9年(1997年)、「校歌の碑」はこの地に建立されました。校歌が制定されて90年、作詞した早大OBの相馬御風が生まれて115年の節目の年でした。その前年、市川稲門会の髙田浩雄さん(元副会長)に同じ市川稲門会の矢谷憲一氏(元会長、故人)から「校歌の碑の建立で相談に乗ってほしい」との話がありました。髙田さんが経営陣の一員として働いていた株式会社タカタが建築石材の老舗で、有名なビルの石材建築で数多くの実績があったからです。加えて発起人である早大の十代総長である村井資長氏(市川稲門会のメンバー)や山田和生氏(鎌倉稲門会名誉顧問)の強い働き掛けもありました。
髙田さんはこの石碑の製作、基礎・建立工事を快く引き受けたものの、完成までには多くの苦労もありました。まず素材の石そのものが相馬御風の生誕の地、新潟県糸魚川市の銘石「姫川石」と指定されていました。その姫川石は翡翠を含むため非常に硬く、加工が難しい。「重量は30トンと重く、形状も不整形なため、加工や取り扱いに苦労し、通常の石碑製作より数倍の時間がかかった」と髙田さんは振り返ります。
早大の校歌「都の西北」は1907年(明治40年)の創立25周年祝典に合わせて制定、披露されました。当時の教員だった坪内逍遥、島村抱月が中心的な役割を担い、二人に作詞を依頼された相馬御風は寝食を忘れて創作に没頭、10日余りで完成させたという(作曲は雅楽家の東儀鉄笛)。ちなみに相馬は早大校歌のほかに童謡歌「春よ来い」なども作詞しており、多彩な能力を発揮しています。
大学キャンパスに鎮座するこの校歌の碑は「都の西北」が校歌として歌い継がれる限り、早大のモニュメントの一つとして今後100年、200年後もこの地に立ち続けることでしょう。髙田さんも「この校歌の碑の製作に携わったことは、私の生涯の誇りであり、良き思い出です」と語っています。
写真「(株)タカタの工場で出荷前の早大校歌の碑」(左から2人目が村井資長氏・元早大総長、右から3人目が髙田浩雄さん)
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